トルコ軍のキプロス侵攻 1974年7月 ファマグスタでの目撃者アルパイ君にビデオ・インタビュー
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アルパイ君とイスタンブールの旅行記を書いていますが、今回はアルパイ君へのトルコのキプロス軍事侵攻に関するインタビューです。
そもそも、アルパイ君と知り合ったのは、1974年(昭和49年)の3月、地中海西の端の島国キプロスのファマグスタと言う港町です。
1973年の9月からヨーロッパ諸国を旅行していた私は、ロンドンに住んでいた時に、英語学校に何人かのキプロス人(トルコ系)と知り合い、彼らの母国のキプロスを見てみたいと思ったのがキプロスに行った理由です。
彼らは、キプロス島東側にあるファマグスタを故郷としていました。そのファマグスタで、いきなり話しかけてきたのが当時高校生のアルパイ君でした。
私たちは、二日間行動をともにした後、私は4月に日本に帰国しました。
その3ヵ月後の7月14日に、突如、トルコ軍はトルコ人保護のためと称して、キプロスに軍事侵攻しました。
この詳しい経緯については、省略しますが、簡単に言うと、当時のキプロスは、国内にギリシア系とトルコ系の住民が混在していました。
ギリシア系とトルコ系から構成されるキプロス政府内にギリシア併合を要求するクーデター騒ぎが起こり、トルコ系住民の安全が脅かされていると言うのが侵攻の理由です。
そのようなことから、トルコ軍はファマグスタに上陸し、私の滞在していたギリシア系のホテルも空爆で破壊されたと聞いた記憶があります。
今回、イスタンブールで再会した機会を捉えて、当時、ファマグスタで学生生活を送っていたアルパイ君にトルコ軍の侵攻がどのような状況であり、アルパイ君自身どのように過ごしていたのかを聞いてみました。
インタビューの日時は、2008年9月9日午前10時30分頃、場所はイスタンブール沖のプリンセス諸島のクユブ島のあのボラレたレストラン、「MADO」です。
インタビュー内容の補足説明です。
侵攻当時、アルパイ君は高校生くらいで、ファマグスタのギリシア人地区にある学校で勉強していました。
ファマグスタは、当時は、ギリシア人とトルコ人が共に住んでいて、ギリシア人が26,000人くらい。トルコ人が約8,000人住んでいたようです。
トルコ人は、昔の城壁に囲まれたトルコ人地区、ギリシア人はその外側に住んでいました。ビデオ中、しきりに出てくるWall(壁)は、トルコ人地区を取り巻く壁のことです。
ファマグスタのトルコ人地区の衛星写真 城壁に囲まれた地域です。
侵攻当日の朝、アルパイ君は学校内の寄宿舎にいました。他にも、学校にはトルコ人の学生もいたようですが、校外からの通学のため、早朝に学校に居たのはアルパイ君がただ一人のトルコ人で、残りはギリシア人の学生だったようです。
侵攻がおきるいやいなや、落下傘兵を見たギリシア人は全て逃げてしまって、アルパイ君一人が学校に取り残されました。
アルパイ君は助けを求めに校外に出ようかと考えたようですが、途中で撃たれるかもしれないと考えて居残りました。
トルコ人地区の警察署の署長が心配してくれて、この人は私も会って一緒に食事をしたこともあったのですが、彼が車でアルパイ君の救出に学校まで来てくれました。
そうして、とりあえず警察署まで連れてきてくれて、アルパイ君はそこの留置所に泊まりました。
この署長は、ギリシア人地区のホテルに泊まっていた私に、ホテルを引き払って留置所に泊まったらと言ってくれました。もちろん、冗談ではなくて、親切な申し出だったのです。
アルパイ君は、警察署に一泊した後、トルコ軍の船で、トルコ本土に帰国しました。
港には、お母さんと叔父さんが待っていてくれていました。
以上が、今回、アルパイ君へのインタビューで判明したことです。
トルコ軍侵攻後の、キプロス及びファマグスタですが、それまではキプロス全土で混在していたトルコ人とギリシア人は、南北キプロスの境界線を隔てて分断され、北側がトルコ人支配地区、南側がギリシア人のキプロス政府の支配地区となりました。
つまり、かつてのインドとパキスタンと同じような状況が起こり、ファマグスタを含む北側のギリシア人は南側へ、南側のトルコ人は全員北側に強制移住となりました。
ここで、興味深い状況が起こりました。それは、ファマグスタ市内のギリシア人地区は閉鎖され、誰も入れない状況となっているようです。アルパイ君のバリヤー発言は、このことを意味しています。
つまり、侵攻したトルコ側は、あくまでトルコ人の安全確保で侵攻したのであり、ギリシア人の財産等欲しさに攻め込んではいないと言うことを侵攻の大義名分としたから、ギリシア人の遺留財産には手がつけられないようです。
それで、ファマグスタ海岸に林立するギリシア人所有の高級ホテルや商業地区は、ゴーストタウン化しております。
そのため、ファマグスタ市のGoogleの衛星写真を見てみると、トルコ人地区の城壁の南側海岸沿いのホテル島が並ぶ地域には、車が一台もなく、広大なゴーストタウンの様子がよくわかります。なかなか見ることができない衛星写真の一つだと思います。
南キプロス側は、何とかこれを開放して欲しいと要求しておりますが、北キプロス・トルコ側はこれを拒否しています。
さりとてトルコ側でこれらホテルを稼動させるわけにも行かず、放置されたままです。トルコ人と言えども、この旧ギリシア人地区に無断で入ると罰せられるそうです。
ま、中東地域では、このような歴史、環境の中で人々は生活していることを知っていただけたら幸いです。
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第2次世界大戦後、パレスチナは英国の統治下になり、聖地復興を目指すユダヤ人のパレスチナ移住が始まった。だが英国は彼らを捕まえて途中のキプロスへ送り込む政策をとった。脱出船"エクソダス号は、パレスチナの入国許可を求めてキプロスの港を離れた……。 ポール・ニューマン、エバー・マリーセイント出演
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コメント
滋賀 コテージさん、今晩は。Junです。
コメントのチェックを怠っていました。すみません。
この記事は、1974年にキプロス島で出会ったトルコ人の青年、アルパイ君と数年前にイスタンブールで再開した折に、当時の状況をインタビューしたことについてです。
キプロス島の紛争については、日本ではほとんど知られていませんが、このような状況は、世界中に起こっています。
少しでも、知っていただけたら幸いです。
投稿: | 2010.07.03 22:22
はじめまして。
私は平和ぼけしているかもしれませんが、世界ではこんなことがたくさん起こっているのですね。なんかあらためて思いました。
投稿: 滋賀 コテージ | 2010.06.30 15:36